9.その頃、教会では(二日目・上)

「レーニア、町の食材屋に行って林檎を買ってきてくれないか?」
 次の日。ディルフィスは出勤してきたレーニアに一風変わった仕事を割り振った。てっきりいつも通りの仕事だと思っていたレーニアは目をぱちくりとさせる。彼女は普段、雇われ修道女としてレストール教会で教務に勤しんでいるのだ。
「どうしてですの? ディルフィスさまがそのような仕事をお頼みになるのは珍しいですわね」
 レーニアが率直な疑問をぶつける。このようなことができるのも、ひとえにこの教会が風通しの良い職場であるゆえだろう。ディルフィスは口元を緩ませながら照れくさそうに笑った。
「ふふふ、実は今日来る予定の俺の弟はアップルパイが大好物なんだ。遠路はるばるやってくる弟を労おうと思ってね」
「成程。良いお兄さんですわね、ディルフィスさまは」
 レーニアもふわりと顔を綻ばせる。しかしその表情とは裏腹に、彼女はディルフィスの頼みを一蹴した。このようなことができるのも、ひとえにこの教会が風通しの良い職場であるがゆえである。
「けれどすみません。わたくし、今日のお昼はどうしても外に出たくありませんの。実は日傘を忘れてしまって……」
 そう言ってレーニアは赤い瞳を曇らせた。実は彼女は孤児であり、どうやらどこかで吸血鬼の血が混じっているらしい。純血の吸血鬼よりはマシなものの、太陽の日差しやにんにく、銀製品などに触れると軽いアレルギー反応のようなものが出てくる体質であるとのこと。これは彼女がこの教会へ赴任してきた時にディルフィスが聞いた話である。
 ならば仕方ない。ディルフィスはこの教会のもう一人の働き手に白羽の矢を立てた。
「カミーユ、君はどうだい?」
「はい、いけます」
 彼女はきりっとした声で答える。ここで働き始めた当初からは見違えたような頼もしい返事に内心ほろりとしつつ、ディルフィスはカミーユに買い物メモを書いて渡した。
「林檎とパイ生地と……ディルフィスさま、今日のおやつはアップルパイですか?」
「ああ。昨日言っていた俺の弟はアップルパイが好きでね。折角だし久々に俺の手料理を振舞ってやろうと思ったのさ」
 腕が鳴るぞー、とおどけて言ってみせるディルフィス。カミーユは柄にもなく浮き浮きしている牧師に物珍しさを覚えながらも、買い出しへ出発した。
 その後カミーユの身に起こったことは、カルメ達の視点で既に語ったとおりである。

 その後ディルフィスは、教会一階にある礼拝堂で一般の訪問客を相手に通常の業務へと勤しんでいた。
 礼拝堂の奥にましましているはずの件の女神像へは、一般客は誰一人として手を触れていなかったことは付け加えておく。レーニアがここへ出勤してきた朝九時頃に確認した時は、間違いなく女神像はそこに佇んでいた、とは彼女の弁だ。
「はい、呪いの治療だね。ではこっちへ……『ルクス』」
 彼が呪文を唱えると、ぽわぽわとした温かい光が礼拝客の男性を包み込んだ。やがてその光が消えると同時に、彼の身体から呪いの成分がすうっと消え去っていく。
「あっ、身体が軽くなりました! ありがとうございます……!」
「いえいえ。また冒険の途中で何かあったらすぐに寄るんだよ」
「はい、はい! ありがとうございます!」
 感激した様子の男性は、腰にかけた片手剣をかしゃかしゃと揺らしながら教会を後にしていった。玄関まで彼を見送ったディルフィスはその様子を見て、心底安心したように息をつく。
 この世界の牧師や修道女は、宗教の幹部としての側面の他に奉仕活動の一環として光魔法での冒険者への治癒なども行っているのだ。もちろん怪我の治療は専門家である医師には遠く及ばないが、魔法で付けられた傷や先程のような呪いへの対処は光魔法のほうが一枚上手である。
 そんなわけで、ディルフィス、そしてレーニアやカミーユも光魔法の専門家であるのだ。とはいえカミーユはまだ修行中の身ゆえ、あまり高度な魔法は行使できないが。
 噂をすれば影。どうやらカミーユが買い出しから戻ってきたようだ。彼女は林檎を沢山詰めた紙袋を両腕で大事そうに抱え、大きな肩掛け鞄をその小さな身体にかけている。カミーユは礼拝堂にディルフィスの姿を見つけると、とてとてと駆け寄ってきた。
「ただいま帰りました、ディルフィスさま」
「おかえり、カミーユ」
 二人して挨拶を交わし、辺りは和やかな雰囲気に包まれる。ふとカミーユはそんな雰囲気を自分から打破するように、ディルフィスへ声をかけた。
「ディルフィスさま、少しお願いをしてもいいですか?」
「なんだい?」
「この林檎の入った買い物袋を、台所へ持っていって欲しいのです。私は少し、ここでお祈りをしておきたくて」
 カミーユは時々、こうしてひとりきりでお祈りをしたがる癖があった。ディルフィスは恐らくそれだろうと納得し、カミーユから袋いっぱいの林檎を受け取る。
「台所まで持っていってくださったら、ご自分のお仕事にお戻りになられて構いません。どうか、お願いします」
「ああ、わかったよ。ゆっくりお祈りしておいで」
 ディルフィスはとんとんと階段を上がり、台所の机へ林檎を置きに行った。その帰りに丁度階段を上がってくるレーニアとばったり会い、ニ、三言の言葉を交わした後に礼拝堂へ戻っていったのだった。