1.『魔王の椅子』窃盗事件

 こくり、こくり。ゆったりと船を漕ぐ人影が一つ。柔らかな毛皮に包まれた拳でつく頬杖は、彼女の安眠へ大いに貢献していた。しかし楽しい夢はそう長く続かない。こくり、こくり。ひと漕ぎするごとにその小さな顎は手からずり落ち、最終的に彼女は顔面から机にばたりと直撃。

「みゃ! 私ったら寝ちゃってたみたい!」
 ダイナミックに目覚めた彼女はきょろきょろと辺りを見回した。狭い部屋には、最低限の家具しか置かれていない。普通の部屋と違うところといえば、壁の一角にじゃらじゃらと武骨な鍵束がかけられていたり、やけに大がかりな通信機があることぐらい。鍵束は窓から差し込む淡い光に照らされ、きらきらと輝いている。彼女は瞳孔を細め、頭頂部の耳ごと顔をごしごしと洗った。

「やば、もう朝じゃない。最後の見回りの時間までもうすぐだわ」
 そう言ってふわふわの両手で制服を正した彼女の名はイームズ。ケンドル王立博物館の警備員である猫獣人だ。イームズは机のうえにある置時計が六時を示していることを確認し、「あと三十分ね」と小さくつぶやいた。

 ケンドル王国は、魔王と戦った勇者が建国したという由緒ある国である。勇者が芸術好きだったこともあり、現在では国内の大きな町には必ずと言っていいほど立派なコンサートホールや博物館、美術館などが建てられている筋金入りの芸術愛好国家となっていた。その中でも最大の規模を誇るのが、ここケンドル城下町に建てられている王立博物館である。イームズは若年ながらもそこの警備員として、日々芸術マニアたちの顔をのんびり眺める仕事をしていた。基本的に日中の警備は楽なのだが、月に一度、宿直当番が回ってくる一日だけは地獄の徹夜を強いられる。今回もイームズは何度か居眠りこそしたものの、なんとか規定された時間に定期的な見回りを遂行することができていた。

「あとは六時半の見回りをばっちりこなせば晴れて退勤! 今日はたっぷり昼寝しなくちゃ」
 早くも業務終了後のことを考え始めるイームズだったが、トントン、と警備室の扉を叩く乾いた音で現実に引き戻される。

「はい? どなたでしょう」
 イームズがおそるおそる扉を開けると、そこに立っていたのは人間の青年だった。上質に仕立てたコートにぴんと伸びた背筋は見るものに上品な印象を与える。青年はイームズの姿を見ると申し訳なさそうに口を開いた。

「こんな朝早くにすみません。すこし特別展示室の鍵を開けていただけませんか」
 特別展示室、という言葉を聞いてイームズは少し身構えた。現在、あそこには別の場所から借用してきたとても貴重な展示物が置かれているはず。確か、昔の魔王が使っていたといういわくつきの椅子だ。イームズは慎重になりながら問いかける。

「特別展示室ですか? どのようなご用件でしょう」
「僕は昨日にここを観覧させて頂いた者なんですけど、どうやらハンカチを失くしてしまったみたいなんです。一晩中ずっと探せる場所は探しつくして、それでも見つからないので途方に暮れていたんですが、ふと昨日こちらの特別展示室でハンカチを使ったことを思い出しまして。一縷の望みをかけてお伺いしました」
「なるほど、探し物ですか……」

 イームズは考え込んだ。これが普通の展示室なら二つ返事で了承したいところだが、特別展示室は文字通り特別だ。この部屋だけ最新式の魔法道具の錠前を取り付けるほどセキュリティには気を使っており、中の展示物もそれほどの設備で以って守る価値のある、非常に貴重な物である。

「お願いします、あのハンカチは魔物にやられて亡くなった母の遺品なんです」
 悲壮感あふれる表情でイームズの袖をつかみ、懇願する青年。それを振りほどけるほどイームズも鬼ではない。

「……わかりました。ではついてきてください」
 ついに折れたイームズは鍵束を壁からひったくると、青年と共に警備室を後にした。

◆◇◆

 ケンドル王立博物館は国内最大規模の博物館というだけあり、館内も非常に広い。入口のすぐそばにある目立たない警備室の扉を抜け、初対面の二人は気まずい沈黙に耐えながら薄暗い廊下をひたひたと歩いていった。一階の広間を通り抜けて二階への順路を進む。

「階段があるので気を付けてくださいね」
 イームズは早足で進む青年の背中に向けて声をかけた。と同時に、携帯用の明かりを持ってくればよかった、と後悔した。イームズの持つ猫の眼は薄暗いなかでも正確に周囲を把握できるが、人間の眼はそうもいかないだろう。確か警備室には夜目の効かない同僚が使っているべらぼうに明るいランタンがあったはずだ。しかし彼女の心配をよそに、青年は落ち着いた声で答えた。

「御心配には及びません。『ルクス』」
 青年が光魔法を唱えると、たちまち階段とその周りだけがぱあっ、と淡く発光する。イームズは魔法を使えない獣人族に属するので、彼女の目にはその光景がとても新鮮に映った。

「まあ! 魔法を使えるんですね!」
「あまり得意ではないのですがね」

 青年は謙遜したように答えつつ、ずんずんと階段を昇ってゆく。やがて二人は特別展示室の目の前に到着した。イームズは鍵束の中でもひときわ目立つ奇妙な形状の鍵を手に取り、錠前にするりと差し込む。するとぱちぱち、という雷魔力の音がしたのち、特別展示室の扉が完全に開錠された。イームズがどうぞ、と言う前に青年は我先にと展示室へ消えていく。

「あ、待ってください。いま明かりを点けます」

 イームズは慌てて扉から離れ、廊下のつきあたりにあるスイッチの下へ向かった。照明魔具を点けて戻ろうとすると、特別展示室から聞こえたのは『警備員さーん!』とイームズを呼ぶ声。ははん、さてはハンカチが見つかって嬉しいんだな、と口角を上げつつ展示室へ向かったイームズの目に飛び込んできたのは、卒倒してしまいそうな光景だった。

「警備員さん! ここに展示されてた椅子が無くなってます!」