減給、謹慎、解雇。縁起の悪い熟語たちがイームズの頭の中を駆け巡る。全身から力が抜け、あわや倒れこみそうになった彼女を抱きとめた青年は至極冷静に口を開いた。
「ふむ、これは僕の出番かもしれません。警備員さん、実は僕の仕事は探偵なんです。ご存じですか?」
「ええっと……なんでしたっけ……」
イームズは記憶の糸を辿る。たんてい、という音の響きはどこかで聞いたことがあるような気がしたが、その言葉の意味するところは頭からすっぽりと抜け落ちていた。返答に詰まるイームズを見て、青年は予想外、といったふうに一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。しかし次の刹那には気を取り直し、イームズにやさしく説明をした。
「探偵というのは、まさに今起こっているような不可解な事件を解決する仕事です。アイセル殿下が直々にお出しになった広告に、『ローシャ探偵所』というのがあったでしょう? 私もそのような探偵のひとりなのですよ」
「へ、へえ……私、あまり新聞を読まないタイプなので知りませんでした。——ってことは、あなたが盗まれた展示物を取り返してくれるんですか!?」
彼女は藁にもすがる思いで問いかける。もしこのまま消えた展示物が見つからなかったら、イームズはこの責任をとって辞職となるだろう。それどころか、賠償請求までされるかもしれない。悲壮感あふれる表情で青年の袖をつかみ、懇願するイームズ。それを振りほどけるほど青年も鬼ではなかったようだ。
「はい。僕も全力を尽くしましょう。だからどうか安心してください」
彼はぱふ、と控えめに胸を叩く。それを聞いたイームズもどうにか落ち着きを取り戻した。青年改め探偵は、ほんのりとした明かりのついた特別展示室をぐるりと見回す。
「盗まれたのは、この台座の上に飾られていた椅子だけですね?」
探偵は空虚な台座を指し、イームズに問いかけた。
「はい。この部屋にはあの椅子しか展示されていませんでしたから」
「なるほど、わかりました。椅子を盗み出すとなるとかなりの重労働です。恐らく犯人は転移魔法で椅子ごと消えたのでしょう」
探偵は淡々と自らの推理を語る。その後目を閉じて顎に手を当て、考え込むような仕草をした。イームズはどうしたものかとそわそわしたが、彼の邪魔をするのは憚られたためそのままじいっと待機。微妙な沈黙が場を支配する。
しばらく経った後、突然探偵が声を張り上げた。
「なるほど、わかってきたぞ!」
「えっ、もうわかったんですか!?」
「全て完璧にわかりました。警備員さんは憲兵を呼んできてもらえますか」
探偵は毅然とした態度でイームズに指示を飛ばす。イームズは彼の推理速度に驚愕しつつも、わかりました、と言い残して特別展示室を後にする。探偵は彼女が自らの視界から消えたことを確認すると、ふう、と誰にも聞こえないよう息を吐いた。
◆◇◆
「おはよーう! ローエ、ちょっと来てー!」
駐在所に着いたイームズは、大きな声で顔なじみの憲兵を呼んだ。ほどなくして出てきた憲兵の名はローエ。肩まで伸びている金髪に赤い瞳を持った女性である。吸血鬼の証である鋭い牙が、あくびをしている彼女の口元でちらりと覗いた。
「ふわあ……どうしたの。もう朝の六時すぎ。いい吸血鬼は寝る時間よ」
「いい憲兵は起きてる時間なの! ……じゃなくて、博物館に来て、早く!」
「ええ? ちょっと待って、傘取ってくるから……」
イームズはのろのろと支度をするローエの白い腕をがしりと掴むと、そのまま博物館のある方向へ引っ張っていく。ローエはわけが解らないまま、なすすべもなくイームズに連れていかれた。彼女は道すがら状況の説明をしながらローエと共に博物館へと疾走。
「あ、見て見てイームズ、変な模様の蝶が飛んでる! いや、アレ蛾かしら?」
「あの、私の話聞いてた?」
どうにも呑気な吸血鬼憲兵に業を煮やしながら、博物館に着いたイームズはローエを連れて真っ直ぐに特別展示室に向かう。
「この先にある特別展示室で展示されていた椅子が盗難被害に遭ったの。でもたまたま居合わせた探偵さんが『謎は解けたので憲兵を連れて来てほしい』って」
「へぇ、探偵か。あたしも話は聞いたことある。事件をひとりで解決するなんて、治安を守る我々憲兵の敵よね」
ちゃき、と腰に差した片手剣の鯉口を切るローエ。イームズは、相手がいないのに威嚇してどうするんだ、というつっこみを胸の奥にしまい込んだ。享楽的な彼女のボケにいちいち構っていたら日が持たない。
「で、その探偵は今どこにいるの?」
「展示室のなかにいると思うんだけど……あれ? いない」
特別展示室には、相棒を失った台座が寂しく鎮座しているだけだ。探偵がいない、というただ一点を除いては、室内の様子はイームズが出て行った時となんら変わっていないように見えた。空っぽの展示室を覗いたローエは軽薄な笑みを浮かべて憎まれ口を叩く。
「自分の推理に自信が無くなって逃げたんじゃない?」
「い、いくらなんでもそれは失礼よ。もしかしたら謎解きに奔走しているのかもしれないし!」
「でもその探偵、『謎は全て解けた!』とか言ってたんでしょ。今更そんなことするかしら」
それもそうだ、とイームズは返答に詰まる。困り果てた二人はどちらからともなく博物館の中を歩き始めた。いま来た道を戻り、二階の大広間へ。ずらりと並んだショーケースに沿って進むと、左手には下り階段へつながる通路が、そして右手にはガーデンテラスへつながる通路が見えてくる。イームズはふと、前回の見回りのときには見当たらなかった変化に気付いた。
「あれ? あそこ、カーペットに染みがついてる」
たったった、と染みのある場所へ駆け寄りそれを覗き込むイームズ。染みとなっている箇所は、博物館の館内とテラスとを隔てる扉の下である。カーペットはどうやら水分を含んで濃く変色しているようだ。もしかして……と前を向くと、観音開きの扉は緩く開けられている。開いたところから雨粒が入り込み、カーペットを濡らしているようだった。
「イームズ、この扉って元々開いてたの?」
「いや、前の見回りのときは閉まってたわ。けどさっき探偵さんと一緒に特別展示室へ言ったときは見てなかったから、もしかしたらその時にはもう鍵が開いていたのかも……」
「ふうん。なんにせよ、確認する必要がありそうね」
ローエは扉に手をかけ、ゆっくりと押して開く。左右の扉はぎいい、と音を立てながら動いていくが、なぜか右の扉は四十五度ほどまでしか開かない。ごつん、と鈍い音がしたのち、そこから先はうんともすんとも動かなくなってしまった。
「あれれ。何かに引っかかったかな。それとも建て付けの問題?」
「どうだろう。テラスの入り口には何も置いていないはずだけど……」
ローエはなんとか扉を開き切ろうとして、がたがたと扉を動かしている。イームズはローエの横をすり抜けてテラスへ入り、右の扉の裏側に回り込もうとした。いったい扉に何が起こっているのか、どきどきしながら確認しようとしたイームズだったが、その鼓動は次の瞬間に一段と速くなる。
「みゃゃゃあ!」
イームズは突然大きな悲鳴を上げてローエの元へ駆け出し、その勢いのまま彼女へ抱きついた。半ばタックルのようなイームズの突撃をなんとか受け止め、ローエは冷静に状況の把握に努めようとする。
「落ち着いてイームズ。どうしたの?」
「た、探偵さんが……死んでる……」
狼狽したイームズはやっとの思いで言葉を絞り出した。彼女を廊下においてローエが扉の裏へ向かうと、そこには激しい雨に打たれても何の反応もなく横たわり続ける人間がひとり。彼にはもう、正常な感覚は備わっていないのだろう。
「あれ、これって……?」
そしてその手前には、涼やかなガーデンテラスには不似合いな、重厚な作りの椅子がどしりと置かれている。盗まれていたはずのその椅子は、テラスの床に這いつくばった男を冷たく見下ろしていた。