3.船旅は休暇課題と共に

 ふーむ、どうしたものか。寝台の横に備え付けられた小さな机に向かいながら、少年は思案を巡らせた。目の前にあるノートの見開き二ページは何も書かれていない状態だ。鉛筆で何かを書いては消し、書いては消しを繰り返しているためところどころページが黒ずんでおり、お世辞にも『白紙』という表現は使い難い。

「はぁ……全くいい案が思い浮かばない……」

 右手でぐるぐるとまわしていた鉛筆を粗雑に筆箱へしまい込んだ少年は、傍らに置いていた鞄から薄い一枚の紙を取り出した。その紙の一番上には、『歴史学:長期休暇中のレポート課題の概要』と題字されている。少年は、はあぁと何度目かのため息を吐き、その紙を机の隅に置いた。

 彼の名はイオニア・ラウティオ。レストールという町の騎士学校に通っている学生である。いつもは騎士学校の制服である赤い上着がトレードマークだが、今日は休暇中ということで薄い黒のゆったりとした立て襟シャツにえんじ色のパンツを身にまとっていた。首の辺りまで伸ばした薄い水色の髪には、アクセントとして左の横髪に緑のメッシュが一房。なまじスタイリッシュな装いなので、腰に巻いたベルトから伸びる武骨な片手剣と短剣がやけに目立った。

 彼が通う騎士学校では剣や槍などの体術のみならず、歴史学や用兵術、算術などなど様々な分野の学問を学ぶことができる。そして他の『学校』と呼ばれる施設の例に漏れず彼が通う騎士学校にも季節ごとに長期休暇が存在するのだが、もちろん休暇とは切っても切れない『休暇中の課題』も存在するのだった。

「《レポートの題材は歴史学にまつわるものならどんなものでも可》って言われても……こういうのって『なんでもいい』が一番困るんだよなー」

 他の授業の課題は単調な問題集がほとんどだったが、歴史学の課題は最低文字数五千字のレポート。これはもはや期末課題並みの大物だ。いちおう友人と共同で書き上げることも許可されてはいるものの、その場合は最低文字数がなんと一万字まで跳ね上がる。ちょっとした学会へ提出できるような壮大なテーマでないと、すぐに文字数が足りなくなってしまうだろう。考えに詰まった彼は気分を変えようと、椅子から立ち上がり全身でぐぐっと伸びをする。そして扉の取っ手に手をかけ、部屋の外へ足を伸ばした。

 太陽の下に出た瞬間、びゅう、と独特の匂いをまとう風が吹き込む。彼がいま立っているのは、大きな船の甲板の上だ。からりと晴れて澄み渡る空の下、透き通るような海の上を進むこの船はローレスタ共和国の港町、レストールから出港したものである。

 イオニアはそう遠くないところで見慣れた二人組を見つけた。一人は栗色のベストに白いシャツというきっちりとした服装の青年、カルメ・ルンだ。彼はイオニアより二、三歳ほど年上の従兄である。カルメはレストールの町で『ローシャ探偵所』という事務所を開いており、イオニアは時折それの手伝いをしているのだ。といっても探偵業はカルメの完全なる趣味で、本職は魔法の研究者である。彼が持つ翡翠色のさらりとした短髪は、右の横髪の部分だけ長く垂らされている。

 対して、その傍らにいるのは茶色い羽毛で翼と脚を、白いワンピースで胴体を覆ったハーピーの女性。名をコンレイという。レストールの町付近の山荘で働く彼女は、ふとしたきっかけから時折カルメの探偵所を訪れては、彼の探偵業務を手伝うようになっていた。いわゆるヘルプのバイト従業員である。
 コンレイは桃色の長髪を潮風になびかせ、きらきらと輝く海を眺めている。カルメは甲板に置かれた木箱に寄りかかり、手元の本をぺらぺらとめくっていた。

「いい天気ですね~。ちょっと周りをひとっ飛びしてきたい気分です」
「この船は結構速度があるからな。下手に飛びまわって置いてかれても知らねーぞ」
「えー? まっさかあ。ほんとに飛ぶわけないじゃないですか。これは小粋なハーピージョークですよ」
「……僕はハーピーじゃないから面白さがわからん」

 うきうきしているコンレイとは対照的に、海を一瞥もせず淡々と答えるカルメ。読み終わった本を船室へ戻しに行こうと顔を上げた彼は、自分たちのほうへ向かってくるイオニアに気付いて声をかけた。

「イオニア、課題は終わったのか? 僕の里帰りについてくるのはいいが、学業をおろそかにしてると叔父さんと祖父さんが泣くぞ」
「ご心配なく。歴史学のレポート以外は終わりました! 褒めてくれてもいいよ」
 カルメたちの元へ歩いてきた彼はふふん、と得意顔で胸を張った。そばにいたコンレイはおお、と両翼を叩いて拍手。

「そのレポートの進捗状況は?」
「ゼロです!」

 だめじゃねえか、とカルメは鼻で笑う。イオニアはむっとしつつも、カルメが心から彼を馬鹿にしてはいないことを知っているのでそれ以上の反論はしなかった。

「まだ休暇が終わるまで日はあるし、きっと未来の俺が何とかしてくれるよ。テーマさえ決まれば書けるから、きっと」
「それならこの本でも貸してやろうか? 何かのとっかかりにはなるだろ」
 そういってカルメがイオニアに差し出したのは、彼が先ほどまで読んでいた本である。イオニアは反射的に手を伸ばしてそれを受け取ると、表紙に書かれた文字を読み上げた。

「『魔物の変質過程~植物魔物編~』何これ、つまんなそう」
「つまんなそうとはなんだ、魔物研究の権威が書いた超ロングセラーだぞ。なにしろ初版が出たのが百五十年前ときた」
「ふっる。そんなに前の本って信憑性あるの? もうここに書かれた大体の理論は覆ってるんじゃない?」
「エルフの著者が今でもちょくちょく改稿してるから、常に最新の情報が書かれてるんだ。今お前に渡したのはこの前出たばかりの第七十八版だぜ」
「もう新しい本を出した方が早いんじゃないかなぁ……」

 微妙な反応を返しつつも、いちおう本を借り受けることにしたイオニア。カルメは本を片づける手間が省けたとばかりに、空になった両の手のひらを組んでぐいっと伸ばした。
 話がひと段落したのを見て、声を上げたのはコンレイである。

「そういえばこの船ってケンドル王国に行くんですよね。カルメくんとイオニアくんは従兄弟なのに、イオニアくんの故郷はケンドル王国じゃないんですか?」
「ああ、たしかにちょっと複雑かもね。カル兄のお母さんと俺のお父さんが姉弟なんだけど、カル兄のお母さんは俺が生まれる前にケンドル王国へお嫁に行ったんだよ。だからカル兄はケンドルで生まれたんだ。俺のお父さんはそのまま故郷で結婚したから、俺の生まれはマーレディア王国っていうここからもっと離れた国なんだよ」

「なるほど。わたしはローレスタ共和国の生まれなので、ここにいる三人はみんな違う国の出身なんですね。……あれ? じゃあなんでイオニアくんはマーレディアじゃなくてローレスタの騎士学校に通ってるんですか?」
「こいつ、こんなんだけどいちおう成績は優秀らしくてな。交換留学生として半年ぐらい前からこっちの学校に通ってるんだ。で、僕が同じ町に住んでるのをいいことに探偵所へしょっちゅう入り浸ってくるようになった、って訳さ」