右を見る。木。
左を見る。木。
後ろを見る。木。
前を向く。……木。
「ああ、もう! ちょっとはバリエーション増やしなさいよ!」
全く変わり映えのしない景色に文句を言ったあたしの声は、木々の隙間をむなしく通り抜けていった。いつもなら優しく諭してくれる友人はもう隣にいない。
せっかく自然豊かなローレスタ共和国に来たんだから、と友人と二人で登山をしになんとかという山の麓まで来たのが約一時間半前。しかし日頃の仕事のストレスが溜まっていたあたしは些細なことで友人と口論になり、気の向くまますたすたと登山道を駆けていってしまったのだ。
思い返せば、途中からどう見ても他の人間が通れなさそうな地面を踏んでいたが、山に慣れないあたしはそんなこと気にもとめずに邁進していた。怒りのままに歩いていったので、日差しのじりじりした熱が後から身体にこみ上げてきて大変不快だ。水筒をぐいっと豪快に傾けて全身いっぱいに水分を染み渡らせようとしたが、ひたん、と舌に乗ったのはたった一滴のぬるい液体のみ。
「うっそ……水なくなっちゃったの……?」
比喩なしで人間の生命線ともいえる水が、枯渇。それが意味することを理解できないほど、あたしは愚かではない。こんな前後不覚の山奥で独りぼっちになった人間に待っているのは――
すうっと身体から力が抜けていく。ああ、あたし、死ぬのかも……
背後にそびえたっていた木にがたりとぶつかりながら頽れる。精神的な緊張がぷっつりと切れた今、しっかりと地に足をつけて立つ余力も無くなってしまった。ゆるりと瞼が落ち、視界が闇に染まる。しばらくそうしていたが、ふと頭上から透き通った美声が降ってきた。
「もし……もし……あのう、まだご存命ですよね……?」
声のする方へ頭をもたげると、自然と視界に光が注がれる。逆光を背に大きな翼でふわふわと宙に浮かんでいる彼女は、人間の頭と胴体を持っていた。綺麗な桃色の長髪には見事な天使の輪っかが光る。
「天使さま……? あたしを迎えにいらっしゃったの……?」
かすれた声でそう言うと、天使さまはぱっちりとした目をさらにまん丸にした後、くすりと上品に笑った。
「まさか。わたしはただのハーピーですよ。いま介抱しますね――」
◆◇◆
こくこくこくこく……自分の喉が水分を摂取している音が心地いい。触覚だけでなく聴覚からも満たされたあたしは、改めて右を見る。そこには天使さま改めハーピーさんが優しい微笑みを湛えて座っていた。
「元気になってよかったです。お水のおかわりはまだありますからね」
「ありがとう……冗談抜きで生き返った気分よ……」
冷たい水が身体を駆け巡る感覚に安心感を覚えながらあたしは言った。正に彼女は命の恩人だ。
「……ああ、そうだ。あなたはヴァンダさんで間違いありませんね?」
「ええ、そうよ。でもどうしてあたしの名前を?」
「実は先ほど、あなたのお友達から『ヴァンダが私とはぐれちゃって別行動しているの。けれどあの子は山に慣れていないから、無事に帰ってこれるか心配で……』と救助依頼を受けたんですよ。今日のわたしは完全プライベートで登山しに来たんですが、本業は他の山麓のロッジで働くお姉さんなので! うちの山でもこういうお仕事をたまにするんですよ」
誇らしげに胸を張るハーピーさん。つやつやの長髪に天使の輪っかのキューティクルが輝いている。ハーピーも登山とかするんだ……というか歩いて山を登るのかな……とどうでもいい疑問が次々と浮かんできたが、ここで一番肝心なものを聞いていないことを思い出した。
「そういえば、あなたの名前を聞いてもいいかしら」
「いいですよ、わたしはコンレイ。ハーピーのコンレイです!」
◆◇◆
「――で。そのヴァンダさんの友人ってひとがローレスタ新聞の記者で、コンレイの救助にいたく感動したヴァンダさんが大げさに事の顛末を伝えた結果、次の日の朝刊に『山でお手柄ハーピー!』なんていう大見出しで記事を書いたわけか」
「さすがカルメくん。まったく興味なさそうな顔をしていた割にきちんとわたしの話をきいていたんですね」
「これ僕貶されてるのか? それとも褒められてるのか?」
「カル兄の心が汚いから貶されてるって感じるんだよ。コンレイさんはいたって真剣に褒めてるつもりだよ」
「イオニアくんのその言い方もコンレイに失礼よ? というかあんたら男ふたりはコンレイの情操教育に悪いからもう少し上品に振舞ってよね!」
「金に下品なやつがなんか言ってる……」
「フォルデルマン運輸は下品じゃないわ。貪欲と言いなさい!」
とある日の探偵所にて。コンレイがバイトとして探偵所に通うようになってからは、探偵所の三人とカペラの声が一層賑やかに飛び交うのが探偵所の日常風景である。
〈了〉
「3.平和だった朝」でちろっと出ていた新聞記事の裏話。ランダム単語ガチャさんからお題をお借りした三題噺でした。
【ガチャ結果】 No.844 登山 No.4310 枯渇 No.4972 別行動
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