8.テラスに佇む椅子

「あ、雨止んでたんだ」

 イオニアが頭上を仰ぐと、一面に広がるのはどんよりとした曇り空。太陽は雲の上に隠れ、足元はまだじっとりと濡れていたが、これ以上水分が増えることはなさそうだ。
 カルメ達はその後、実際に犯行が行われたとされるガーデンテラスへやってきていた。朝から降り続いていた雨は止み、テラスにある花壇の植物は水をたたえてつやつやと輝いている。

「丁度良かった。傘を差しながら現場検証ってのもなんだかかっこつかねーし」
「かっこいいかはどうでもいいですけど、わざわざレインコートを着込む手間が省けたのはよかったです。この天気ならいくらでも飛べますしね」

 コンレイはふわりと翼を広げ、くるっと一回転。湿度の高い、じめっとした風が生まれた。楽しげな彼女の横に立っている大きな吊り下げ旗が重々しくはためく。その陰には件の『魔王の椅子』が依然として佇んでいた。

「ライトさんはこの椅子の手前に倒れてたみたいだね。この人型の部分だけ雨に濡れてない」

 イオニアが目を向けた先には、不恰好に両手足を伸ばしたような人間型の跡があった。ガーデンテラス一帯の床は水に濡れて濃く変色しているが、人型のところは明るい色合いのままだ。恐らく雨が止んだあとに憲兵が死体を運び出したのだろう。

「死体は片付けたのに椅子はそのままなのか。こんなところに放っておいて大丈夫なのか?」
「さ、さあ?」
「この椅子をケンドル城の宝物庫から借り受けた際、王宮直属の国宝担当者以外は一切この椅子に触れるな、とのお達しを受けたのです。ですので心苦しいのは山々でありますが、今夜担当者の方がいらっしゃるまではこのままの状態にしているのですよ」

 ひときわ丁寧な言葉遣いでカルメの問いに答えたのは、この博物館の館長であるジャヌレだった。彼は椅子を愛おしそうに見つめて続ける。

「この椅子には防水魔法がかけられているので、朝の大雨による影響はございません。いやはや、ありがたいことです」
「それはまた、厳重な措置ですね」

 興味を惹かれたらしいカルメはそっと椅子へ歩み寄り、しゃがみこんで丹念に椅子の細部を観察した。イオニアも彼の後ろに立ち、『魔王の椅子』を覗き込む。

 木製の四つの脚は短くも太く逞しく、しっかりと座面を支えている。座面と背もたれにはてらてらとした布で覆われたクッションが付いており、座り心地は中々良さそうだ。背もたれのクッション周りを飾るのは、同じく木で形作られた細やかな意匠である。丁寧に着色されたのだろう、本物のそれとほぼ見分けのつかないくすんだ緑色のツタが背もたれの下部の左右から生えている。無数のツタが絡まり合うような独特のデザインで、人間の美的センスに照らし合わせると少々不気味に感じられた。

 ツタの意匠は背もたれの上部へ向かうにつれて一本、また一本と脱落していき、てっぺんまで伸びているのは左右どちらも一本のみ。その二本は背もたれの上辺で交差するように伸び、背もたれのクッションを囲い込んでいる。カルメはその二本のツタを指の腹でつーっと撫でてみたり、かと思いきやクッションをぽふぽふ叩いてみたりと国宝に対してまるで遠慮がない。イオニアは少々はらはらしつつそれを見守った。

「『アクア』……ふむ、防水魔法がかけられてるってのは本当みたいだな」
「こらカル兄! 勝手になにやってんのさ」

 カルメはついに一線を越えて、こっそり椅子の脚に軽い水魔法をかけた。しかし木製の椅子は全く水を吸わない。椅子の表面に薄くコーティングされた防水魔法が水を弾いたのだ。イオニアがぺし、とカルメの頭を軽く叩くと彼はてきとうに形だけの謝罪をし、イオニアの方へ振り返った。

「すまんすまん、けどこの椅子はもうちょっと調べる必要がありそうだ。なあ、ひとつ頼まれてくれるか?」
「何? 変なことじゃなければ喜んで」

「ジャヌレさんの注意をこの椅子から逸らしてくれ。なんなら、あの人と……ついでにコンレイも一緒にどこか違う所へ行って欲しい」
「テラスから出てけってこと?」
「そうだ。ジャヌレさんがいると、満足に椅子を調べられないからな」

 カルメは声のトーンを落としてそう告げる。ジャヌレはコンレイと何か談笑しているようだったが、その視線は絶えず『魔王の椅子』へと熱く注がれていた。

「確かに、ちょっと監視されてるみたいで居心地が悪いね。わかった、まっかせといてよ!」

 イオニアは明るくそう言い、ジャヌレとコンレイの方へと向かっていった。